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旅の記憶‐8  旅の記録―「道中記」から― [紀行]

L1690517s.jpg 妻沼日向の伊兵衛さんは見聞きしたものを詳細に記した「道中記」を残しています。文政十二年(1827)に行われた「道中記」の記録では伊勢参宮の後、長崎まで足を延ばしたことが記されています。さらに、天保年間には越中立山(芦峅(あしくら)寺)~越後の旅へ、明治初年には利根川船運を利用しての東京・横浜までの旅も記録しています。いづれの「道中記」にも立ち寄り箇所の説明や風景をスケッチしており、見て楽しくなる記録です。この「道中記」は―『名主伊兵衛絵入道中記』利根川歴史研究会編2010(土木史フォーラム第39号【PDF形式:1.94MB】)―として刊行されています。
 妻沼弁財の栄左衛門さんも、立山(富山県)から湯殿山(山形県)への旅日記「湯殿山立山道中記」(文政10年―1827)や伊勢―四国―出雲へ旅日記「道中袖日記」(天保11年―1840)を残しています。訪れた名所や行路などを詳細に記録しています。本書は熊谷市史編さん室より『近世道中記』熊谷市史資料集4-2017―刊行し頒布しています。

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大嶋家文書の道中記(本巻収録文書)
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旅の記憶‐7  四国霊場巡拝納経帖  樋春平山家文書 [紀行]

 江戸時代は街道や宿場が整備され人馬の往来が容易になり、武士は参勤交代など、庶民は巡礼や湯治などを目的に旅立っています。市内樋春の旧家に住む勘右衛門さんは「四国八十八ヵ所」を巡り記帳した「納経帖」を残しています。おそらく「伊勢参宮」から「西国三十三箇所」そして「四国八十八ヵ所」の巡礼へ向かったものと思います。このルートは巡礼者の多くがたどった道筋になります。この納経帖には「奉納四国八拾八箇所巡拝」「武州大里郡 願主勘右衛門」の表題と署名があり、天保14年(1843)年の1月14日から記帳が始まり、結願寺での日付は2月22日となっています。
 この旅は、樋春を晩秋の頃出発し伊勢から大阪に入り、「四天王寺」を記帳はじめの第1番とし、西国の札所から四国の札所へ巡礼をしたものです。巡礼後に宮島、出雲を巡ることもよく行われていますが、勘右衛門さんの場合納経帖以外の資料は不明なので前後の経緯はよくわかりません。ただ、伊勢参宮や四国の旅は約3か月超の期間と多くの旅費を要したと思われ、後に名主に就任する勘右衛門さんとしても、旅は世間を見聞きし体験する就学の場と考えてぜひとも行きたかったのではないかと思われます。
 なお、この奉納帖は大きなご利益があるとされ大切に扱われてきたようです。現在でも、御朱印をいただく納経帖(御朱印帳)の作成は人気が高いようです。
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納経帖の始頁、「大阪四天王寺」 納経帖の表紙 四天王寺の朱印が押される

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旅の記憶‐6  伊勢神宮を参詣した参拝記念の品 [紀行]

 江戸時代には伊勢神宮に属した「御師」といわれる案内人が全国各地の信者へ伊勢参宮への様々な便宜や手配をしていました。伊勢を目指した信者の一行は御師の経営する宿に逗留し神宮での祭祀や神楽の奉納などを行いました。いわば神社と連携した旅行代理店的な仕事や神宮の発行する年々の暦やお札などの配布を行っていたのです。明治時代以降は御師は廃止されましたが姿を変え伊勢参宮の手助けをしていました。市域の神社には奉納された絵馬・額・水鉢、鳥居、瑞垣、階(きざはし)など記念物が奉納造立され、家庭には天照神の軸が飾られるようになりました。参詣者たちの旅の証です。
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 数多く飾られた参拝記念の額や絵馬―市内
 中央は伊勢神宮に太太神楽を奉納したことを示す大きな扁額背後の額も同じ
 前の額は明治18年(1885)1月20日、後の額は天保(1844)15年1月26日執行と記されている。

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神楽奉納記念の盃
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「もの」と「ひと」の旅―5 妻娘たちへ [紀行]

 都へ出仕した武士たちは多くの文物を故郷へ持ち帰りました。その品々の中には家族、特に女性へのお土産は欠かさなかったと思われます。上中条のさすなべ遺跡からは、紅差しに使われた器が出土しています。菊皿(大小組み合わせた入子となる)といい、菊花状に縁を折り曲げた小さな陶器で紅(口紅)を入れたものです。都から運ばれ妻や娘にもたらされた品の一つです。「香合」は、香料を入れたものとされ、合わせ型の小品で中国渡来の白磁や青磁の品で小さいが高級品です。女性向きといえるでしょうか。また、「かがみ」と「櫛」は直球勝負の品でしょうか。
 これらの品は妻沼経塚や上中条のさすなべ遺跡などで出土しています。「和鏡」は花鳥の模様が通例です。櫛はなかなか残らないのですが、万吉下原遺跡の例では和鏡の上にほとんど朽ちた櫛が3点残っていました。当時の絵巻物では装束や調度品、など他にも多くの文物がみられます。都から東路の旅の到着点は家族の元なのでしょう。
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「青白磁合子」―妻沼経塚出土
上中条、さすなべ遺跡出土の「入子」破片
内面に紅朱が残り赤茶褐色に染まっている。
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「山吹双鳥鏡」‐妻沼経塚出土 「灰釉入子」―参考品

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旅の記憶‐5  関所手形と結願奉納絵馬   板井 飯島家文書 出雲乃伊波比神社 [紀行]

今から約170年前、黒船来航に始まる幕末の混乱が始まろうとする2年前に、市内の板井から旅の一行が伊勢参宮に旅立ちました。仲良し五人組といったところでしょうが、旅の目的は単なる娯楽ではなく、村中から代参を請け負っていたようです。村中での参拝や神楽奉納を行いお札など授かってきたと思われます。
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 文書の写真は板井村の名主から出された箱根関所の通行手形です、一行は東海道をたどったことがわかります。文面は次の通り、
『差上申一札之事  一、男五㊞人  右之者共此度伊勢参宮仕候間 御 関所無相違御通被 遊可被下候  為後日通手形依而如件   武州男衾郡板井村   名主 平重郎 ㊞ 嘉永四年亥極月十九日 箱根御関所御役人衆中様』
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 一行は参詣を済ませ無事板井村へ戻ったようです。無事の帰還を祝い、鎮守社の出雲乃伊波比神社に奉納された絵馬には五人の姿と署名が描かれています。
 絵馬の背面には「嘉永四年(1851)亥年十二月十九日発足 同五年(1852)二月二十二日帰国 伊勢参宮同行」と銘記されています。新年をまたいで約65日間の旅の証明です。

参考【「武蔵国男衾郡板井村 飯島家文書549 『江南町史 資料編3 近世』」
 江南町史 資料編3 近世 383頁掲載 江南町史 通史編上巻677頁記載】
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「もの」と「ひと」の旅―4 都ぶり ちょっと贅沢に都の雰囲気を [紀行]

 平安時代末、関東の武士は大番役という都の警備を行う役務のため京へ向かいます。関東と異なった都での生活は関東武士にとって大きな刺激となったはずです。畠山 中条 久下 熊谷 別府 成田の地名を姓とした多くの武士たちは、拠点とした館と耕作地が一族の暮らしの場でありました。しかし、市内に残る館跡を発掘調査した例は少なく、その実態はあまり知られていない状況です。一部の発掘調査により、中条氏に関係する「さすなべ遺跡」や畠山氏の関与が想定される下田町遺跡の館跡からは都ぶりを示す飲食具などが多数出土して注目を集めています。都での生活様式の一部を関東へ持ち込んだと云えるでしょうか。出土した器具(かわらけ)は、都と同様の品で、それを使って旅立ちや帰還の儀式や宴席を設けたのでしょう。白磁・青磁などの陶器類と共にもたらされた上級品といえます。
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上方―白磁  中下段―青磁 いづれも中国陶磁器、破片ですが輝きを失ってはいない。
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大小の「かわらけ」  儀式や饗応に使われ廃棄された。

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旅の記憶‐4  巡礼供養塔  六十六部廻国巡礼塔 [紀行]

 六十六部は、大乗経を書写し国内六十六国の巡礼寺院に納めて歩く巡礼者の呼称です。代理に参詣を請け負うこともあり、旅僧や修行により諸国を遍歴して歩く行者や聖と呼ばれ人々や村の代表者などが行ったようです。個人が行うことは大変な労力・費用・期間を要したと思われ、巡礼を達成した時の喜び大きかったと思われ結願の石碑が造られたようです。市内には近代期までに多数の碑が建てられています。
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妻沼小島所在の六十六部供養塔 男沼所在の「四国・秩父・坂東・新四国」巡拝供養塔

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「もの」と「ひと」の旅―3 権力のかたち  金銀の輝きとヒスイ [紀行]

 古墳時代になると、大豪族から庶民まで、出身一族への帰属意識と大王家に属する政治的地位を意識するようになり氏(氏)や姓(かばね)といった出身や身分を主張するようになります。権力や身分をわかりやすく示すために、金銀宝玉で自己や周囲を飾ること、大規模古墳の造営・武器の獲得などに熱心だったようです。出土品には玉類に加えて金銀の製品が目立つようになります。当時の金銀の産地は日本では知られておらず大陸からの招来品と思われますが、市域の多くの古墳からも金・銀を使った「耳飾」「馬具」「刀装具―刀や鐔など」が発見されています。秩父地域から自然金も産出しますがその利用は多くはないようです。
 また、市内の鵜ノ森遺跡から出土した腰に付けたベルトの装飾品「石帯」は秩父ヒスイで造られたことが分かっています。秩父地域では銅の産出も有名で、鉱産物資源の開発が盛んであったことをうかがわせます。これらの貴金属や宝玉を身に着けたひとは古墳時代は有力豪族の成員、奈良時代は地方役人のような人物だったと思われます。
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1 鍍金耳飾―野原古墳出土 2 銀象嵌鐔と鞘口金具―塩西原18号古墳出土

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3 銀装把金具―塩西原18号古墳出土 4 秩父ヒスイ製「石帯」鵜の森遺跡出土

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旅の記憶‐3  幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場― 石造物 [紀行]

 幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場であることを示す傍示石が門前に建てられていました。定まった形はなく寺々により思い思いの意匠によって造られたことが分かります。共通点は幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場と番付の標示と共に弘法大師の像が彫られていることです。参詣の折には注意深く境内の石塔を見ていただくと見つかると思います。
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 弘法大師像の彫られた巡拝石塔の各種類―本尊と札所番付、寺院名などが彫られている。
 1は妻沼小島 第55番 医王寺 (参考図書等では番外となっている)        
 2は出来島 第84番 普門寺
 3は中奈良 第26番 西福寺 天保7年(1836)の建立
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「もの」と「ひと」の旅―2 いのちのかたち、勾玉 [紀行]

 地球生命は進化という歴史の過程で様々な変革を遂げ、ヒトの出現に至っています。胎児は進化の変容を順にたどっているとされ、私たちの先祖は胎児の姿のような勾玉に命の形を感じ取り守護の想いを寄せてきました。その形を長く保つため美しく堅牢な石材として硬玉(ヒスイ)を素材として大珠や丸玉・勾玉が造られています。既に縄文時代には出現し、弥生から古墳時代の墳墓や古墳などの遺跡から発見されています。発見状況から限られた人物に伴う貴重品であったことが推定されます。
 永らくヒスイの産地は忘れ去られていましたが、昭和時代になりその産地が新潟県糸魚川や姫川周辺にあることが再発見されました。市域で出土する古代のヒスイ製の玉類の多くはこれらの地域で採取されたものと考えられています。
 妻沼飯塚南遺跡から出土した「ヒスイの勾玉」は白色半透明で緑色が淡く筋雲状に所々に混ざる質感から現在の姫川のヒスイによく似ているように思います。このヒスイ勾玉が熊谷市飯塚にやってきてた経路やかかわった弥生人については、共に発見された土器が長野県北信部の影響を持つ土器であることから、稲作農耕の伝番者あるいは開拓者の一団の長に当たるひとが身につけていたと考えられるでしょうか。
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1 飯塚南遺跡の勾玉 2 一本木前遺跡(東別府)のヒスイ勾玉―古墳時代
image017s.jpg 3 飯塚南遺跡の壺形土器

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