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『青鮫は来ているのか―金子兜太俳句の構想と主題』の出版と句碑めぐり [句碑・歌碑]


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『青鮫は来ているのか―金子兜太俳句の構想と主題』

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常光院にある金子兜太句碑「たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし」


 俳人の金子兜太氏が逝去されて1年を迎えた2019年2​月20日に、山下祐樹『青鮫は来ているのか―金子兜太俳句の構想​と主題』(オーケーデザイン)が出版されました(著者は熊谷市立江南文化財センター職員)。
 本書の内容は、金子兜太氏が生涯にわたって詠んだ俳句のうち51​句を選定し、その俳句に対する金子兜太氏自らが記した解説を含め​ながら、それぞれの句について紹介しています。また、「金子兜太​論」としての考察に加えて、逝去される直前の2017年12月1​9日に金子氏の自邸「熊猫荘」で対談した内容も収録しています。​巻頭言は熊谷出身の作家・森村誠一氏から頂戴しました。
 題名の「青鮫」とは兜太氏の代表句「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」に基づくもので、梅の咲く庭に青鮫が到来した想像から春の喜びを感じる一句です。
 本書はAmaz​onや県内書店などで販売しています。書籍に関する問合せは出版​元のオーケーデザイン(電話048-578-8816)までお願いします。

本書の出版を記念して著者と歩く
句碑めぐり「兜太俳句と熊谷の自然郷土」を開催します。
日時:2019年4月6日(土)午前10時〜11時
会場:「常光院」(熊谷市上中条1160)
概要:俳句寺「常光院」にある金子兜太句碑「たっぷりと鳴くやつ​もいる夕ひぐらし」や兜太氏が建立に関わった句碑、当院出身の俳​人・宇咲冬男の句碑を始め境内及び熊谷市指定有形文化財の「常光院本堂」を散策しながら、本書につ​いての解説を行います。







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鹿児島寿蔵熊谷草歌碑建立除幕式 [句碑・歌碑]


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建立された鹿児島寿蔵熊谷草歌碑

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歌碑と寿像、熊谷草保存活動について記した解説板を併せて設置した

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序幕の様子


 2019年3月30日、熊谷市名勝「星溪園」にて、新たに建立された鹿児島寿蔵熊谷草歌碑の除幕式が開催されました。鹿児島寿蔵の歌碑には、「熊谷草なくてかなはじと星池に植ゑて福ぶくしき花を咲かしむ」という寿蔵が詠んだ歌が刻まれています(刻字は一部異なる)。歌意は「熊谷草がなくてはならないと星溪園に熊谷草を植えてふくよかな花を咲かせている」です。

 「熊谷草(クマガイソウ)」は、その花の形が、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である熊谷次郎直実が矢などを防ぐために馬上で背負っていた「母衣(ほろ)」の形に似ていることから名付けられました。昭和時代後半、熊谷地域では自然植生はなく、苗の移植による栽培などが主流でした。

 熊谷地域での熊谷草の保存は、1970年代後半から地元の愛好団体を中心に続けられ、1979年に熊谷草保存会を結成。熊谷の各地に株を植栽し、花を咲かせる活動が進められてきました。

 熊谷での熊谷草の保存活動が進められる中、東京の自宅が焼失し、戦中・戦後、熊谷に疎開していたアララギ派の歌人で人形作家の人間国宝・鹿児島寿蔵(1898~1982年)が、歌人の棚澤慶治らの働きかけにより、1980年5月に熊谷市名勝「星溪園」や江南地域など熊谷草の生息地を訪れています。その際、寿蔵は地元での保存活動に想いを寄せて、冒頭の短歌を残しました。この歌は保存活動の励みになったといわれています。

 20世紀終盤、熊谷草保存会は星溪園や市内各地などへの植栽を続けたましたが、熊谷草の継続的な保存には困難を極め、2014年に熊谷草保存会は解散しました。こうした経緯を踏まえ、熊谷草の保存活動を顕彰するため、この地に鹿児島寿蔵の直筆揮毫の歌碑建立に至ったものです。

 熊谷短歌会会長・熊谷文化連合会長の金子貞雄氏を中心に、藤間憲一氏(熊谷商工会議所会頭)、野原晃氏(熊谷市教育員会教育長)、八木橋宏貴氏(株式会社八木橋代表取締役社長)らが呼び掛け人として名を連ねました。事務局幹事は金子氏のほか、小川美穂子氏、米山実氏らがが担当しました。

 平成30年11月~平成31年2月に寄附募集を行い、市内外から建立想定額(60万円)を超える寄付が集まり、解説板や報告書費用などに充当するほか、今後は鹿児島寿蔵の顕彰、熊谷草保存のための調査研究のための基金として使用する予定です。

 星溪園には埼玉県下で最古級の芭蕉句碑(後の時代の人が建立した顕彰碑)や、俳人の山口青邨(やまぐちせいそん)、元熊谷市長の斎藤紫石(さいとうしせき)の句碑があります。また、鹿児島寿蔵の歌碑は熊谷市上之の龍淵寺にも建立されています。併せて総合的な啓発を行い、歌碑めぐりなどを計画する予定です。教育委員会としても、星溪園における歌碑を通じて、鹿児島寿蔵や棚澤慶治などの歌人と地域との関わりや、熊谷草についての情報発信や顕彰を市民協働として進めていきたいと考えています。







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俳人・金子兜太さんの日記『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)の刊行 [句碑・歌碑]

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 昨年亡くなった俳人で熊谷市の名誉市民であった金子兜太さんの日記『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)が没後一周忌に刊行されました。俳人たちとの交流や作句上の試行錯誤などが約60年にわたって記され、戦後俳句史を知る上で貴重な資料です。全3巻で、今回発売されたのは第1巻で450ページ。1957年から76年までが収録されており、今後数年をかけて刊行される予定です。熊谷市と俳人との関わりを知る上でも多くの情報が含まれており、熊谷市の現代における俳人交流史についても言及が及んでいます。平成31年度における本市の金子兜太関連事業においては、展覧会や句碑巡りツアーが開催され、本著作に関する新たな情報などの発信や情報共有がされる予定です。





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講演会「金子兜太俳句と『定住漂泊』の思想」 【熊谷市名勝「星溪園」】  [句碑・歌碑]




 2019年2月24日に熊谷市名勝「星溪園」において開催した俳人・金子兜太氏の一周忌行事である講演会「金子兜太俳句と『定住漂泊』の思想」の様子を収録し、YouTubeの江南文化財センター・サイトに掲載しました。金子兜太氏の俳句にある文学や思想に着目し、その根底にある「定住漂泊」というキーコンテクストとは何か考える内容になっています。どうぞ、ご参照ください。





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講演会「エリザベス・ヴァイニングと棚澤慶治―少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師と熊谷を代表する歌人の交流をめぐって―」 [句碑・歌碑]

講演会「エリザベス・ヴァイニングと棚澤慶治―少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師と熊谷を代表する歌人の交流をめぐって―」を2019年2月18日に熊谷市成田公民館で開催します。


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棚澤邸に建立された記念碑


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講演会案内と序説


講演・開催概要
日時:2019年2月18日(月)午後2時~午後3時
会場:熊谷市立成田公民館(熊谷市上之531-2)
講演:「エリザベス・ヴァイニングと棚澤慶治」     
-明仁親王の家庭教師と熊谷を代表する歌人の交流をめぐって-
熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹 
受講費:無料   定員:40名(当日受付、先着)
主 催:熊谷市教育委員会・成田地域史跡保存会・熊谷学ラボラトリー  
当日問合せ:成田公民館 電話048-523-0278 



概要
1949年(昭和24年)12月29日、少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師を務めていた
エリザベス・ヴァイニング氏(バイニング氏、ヴァイニング夫人とも表記)が、
熊谷市中西の歌人であり農家の棚澤慶治氏邸を訪れている。
これは日本の農家や習俗の状況を視察するためのもので、迎春の餅つき風景などを見学した。
この経験はヴァイニング氏の『皇太子の窓』にも詳しく記されている。
ヴァイニング氏は棚澤氏に「with best wishes and in memory to bright winter morning
at the Tanagawa farm Elizabeth Gray Vining」(晴れた冬の朝の棚澤家の思い出に)と
いう筆記録を残した。
この刻印と、棚澤氏が詠んだ「わが家に今年収穫れたる胡麻もちて帰国直前の夫人訪ひゆく」
などの短歌を刻んだ歌碑を1967年(昭和42年)に棚澤氏邸の庭に建立した。
本年はヴァイニング氏に学んだ今上天皇の年号「平成」最後の年であり、ヴァイニング氏が
熊谷に訪れて70年に当たることから、こうした熊谷での人物交流に着目するとともに、
棚澤氏が果たした地域文化の振興について考える機会としたい。


人物概要
エリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニング
(Elizabeth Janet Gray Vining、1902年- 1999年)
アメリカ合衆国の司書・作家。
戦後しばらくの時期、当時皇太子であった少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師をしたことで知られる。
1902年、米国ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれる。
ジャーマンタウンフレンズ学校と後のブリンマーカレッジ(1923年のクラス)を卒業し、1925年に
ドレクセル大学で図書館学の学位を取得し、1926年には、ノースカロライナ大学チャペルヒル校で
司書となったほか、著作活動を続けた。終戦後の1945年にはアメリカ・フレンズ奉仕団広報部に勤務、
GHQによって皇太子明仁親王の家庭教師に選ばれ1946年10月に来日、
少年時代の皇太子と義宮(後の常陸宮正仁親王)らに1950年12月に帰国するまでの4年間、英語を教えた。
また、学習院大学や津田塾大学においても講義などを行なった。
1950年に勲三等宝冠章を受章。帰国後も陛下との交流は続き、1959年4月の陛下のご結婚式には、
ヴァイニング氏は外国人としてただ一人招待されている。
陛下への教育などについて描いた『皇太子の窓』はベストセラーとなり、各国語に翻訳され大きな反響を呼んだ。

棚澤慶治:(たなざわけいじ 1898-1996)
歌人。1898年(明治31年)、上之村(現・熊谷市中西)に生まれる。
1916年(大正5年)、俳誌『ホトトギス』で俳句発表した後、短歌に転じ、歌誌『アララギ』発表し
土屋文明(1890-1990:歌人・国文学者)に師事した。
1945年(昭和20年)、鹿児島寿蔵(1898-1982:アララギ派歌人・紙塑人形の人間国宝)の市内疎開を契機に
「新泉」同人となり、後に「潮汐」に合流する。
1954年(昭和29年)、熊谷市出身の文芸評論家の石坂養平を主宰とした「ときわ新聞」編集発行人となり、
1965年(昭和40年)に歌集『土のにほい』、『わが文学と生活』を出版。
熊谷を来訪した江戸時代後期の歌人・安藤野雁(1815-1867)の顕彰に務め、荒川土手に歌碑の建設を行った。
地元の上之村神社境内には自身の歌碑が建立されている。
1950年(昭和25年)、熊谷市文化功労者、1979年(昭和54年)、埼玉県第1回文化ともしび賞を受賞。
1996年(平成8年)、98歳で没した。




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石原八束句碑「風の餘燼の落葉月夜となりけらし」 [句碑・歌碑]


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石原八束句碑
「風の餘燼の落葉月夜となりけらし」

妻沼聖天山北側にある妻沼公民館前に建立された俳人・石原八束の句碑です。昭和50年(1975)に堀越敬紀ら有志による句碑建設会が中心となり建立が果たされ、本人による独特の揮毫が印象的です。句は句集『空の渚』に所収された代表作の一つです。裏面の説明は熊谷の書家、柴田侑堂が担いました。石原八束(1919-1998)は飯田蛇笏や三好達治らに師事し、俳誌「秋」を主宰しました。現代俳句に叙情性をもたらしたことで知られ、芸術選奨文部大臣賞など数々の高い評価を得ています。






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クマガイソウの歌碑建立について [句碑・歌碑]

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2014年5月、星溪園で花を咲かせたクマガイソウ


 熊谷ゆかりの武将、熊谷次郎直実の名を冠したクマガイソウの保存が1970年代から地元の愛好団体を中心に続けられてきました。クマガイソウは「熊谷草」とも表記し、花の形が、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将・熊谷次郎直実が矢などを防ぐために馬上で背負っていた母衣(ほろ)の形に似ていることから名付けられたものです。
 元来、熊谷ではクマガイソウは自生していませんでしたが、熊谷の名を冠する花の保存のための機運が高まり、1979年に熊谷草保存会が結成され、熊谷の各地に株を植栽し、花を咲かせる活動を進めてきました。
 そのような中、戦時中に東京の自宅が焼失し、熊谷に疎開していた歌人で人形作家の人間国宝・鹿児島寿蔵(じゅぞう)(1898~1982)が、1980年5月に熊谷市の星溪園を訪れています。今後植栽する予定であったクマガイソウと、地元での保存活動に思いを寄せて、「熊谷草なくてかなはじと星池に植ゑて福布(ぶ)くしき花を咲かしむ」
(熊谷草がないと寂しくもあった星溪園に熊谷草を植えてふくよかな花を咲かせることだろう)という短歌を残しています。
 その後、熊谷草保存会は名勝「星溪園」や市内各地などへの植栽を続けましたが、市内での生息地は減少の一途をたどり、現在では熊谷市内から姿をほとんど消しました。植生した株も根付かず、夏場の高温環境なども影響し、保存活動も難しく2014年に熊谷草保存会は解散しました。
 解散から5年を迎えるあたり、熊谷での熊谷草の保存活動を顕彰することを目的として、鹿児島寿蔵の星溪園で詠んだ熊谷草を主題にした短歌を碑にすることになりました。
 この歌碑建立に向けて呼びかけ人を中心に寄附募集を始めている。寄付は一口1,000円で60万円を目標に、来年2月末まで募集しています。
 寄附募集についての問い合わせは、事務局の金子さん048-521-7157までお願いします。 寄附の振込用紙は星溪園など市内各所に設置されています。





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「斎藤別当実盛公敬仰会」文化講演会の動画公開 [句碑・歌碑]





 9月に妻沼中央公民館で開催された「斎藤別当実盛公敬仰会」文化講演会「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」及び妻沼八木節、詩舞「実盛慕情」の動画を江南文化財センターのYouTubeサイトにアップし公開しています。実盛と芭蕉のつながりと妻沼の俳諧文化への系譜について思いを馳せていただけたら幸いです。



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斎藤別当実盛公敬仰会・文化講演会「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」 [句碑・歌碑]

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文化講演会「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」の様子

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妻沼東・西中学校の生徒による詩舞「実盛慕情」


 9月9日(日)、熊谷市妻沼中央公民館2階大会議室にて、平安時代末期の武将、斎藤別当実盛の顕彰団体である斎藤別当実盛公敬仰会による文化講演会が開催されました。講演会では「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」をテーマに、斎藤別当実盛の死に触発され江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」と妻沼聖天山に建立された句碑などについてお話をしました。
 芭蕉は「奥の細道」の紀行中に、小松(石川県)の多太神社を訪れ、斎藤実盛の遺品の一つである兜を目にしました。幼い木曽義仲の命を救った実盛でしたが、年を経て平家方として義仲と戦わざるを得なくなる状況になります。白髪を染め若武者と見せ出陣するが討たれてしまいました。この伝説に思いを寄せて芭蕉はこの俳句を残しました。 「意に添わぬ戦いに出なければならなかった実盛は、なんといたわしいことだ。この兜の下のきりぎりす(今のこおろぎ)も、その悲しみを思い鳴いているようだ」という句意となります。当初は「あなむざん」という冒頭でしたが、『奥の細道』に編纂される際に同句のように「むざんやな」に変更されたと伝わります。
 その他、同会場では、妻沼八木節保存会による「斎藤別当実盛公」のほか、エプロンスィングによる文部省唱歌「斎藤実盛」、妻沼東・西中学校の生徒による詩舞「実盛慕情」の披露などがありました。講演会には約100名の来場がありました。



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金子兜太 追悼の集い [句碑・歌碑]

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金子兜太氏生前の映像

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宮本町太鼓愛好会による秩父音頭と秩父囃子の演奏

 9月2日、埼玉県桶川市のさいたま文学館文学ホールにおいて、本年2月に逝去された金子兜太氏を偲ぶ会として、埼玉文芸集団・さいたま文学館共催による「金子兜太 追悼の集い」が開催されました。第1部「金子兜太を偲ぶ」では、生前の映像などが上映され、兜太氏が歌う「秩父音頭」の名調子が印象的でした。第2部「金子兜太を語る」では兜太氏に師事した俳人の高野ムツオ氏による講演があり、兜太の名句についての解説などがありました。第3部「金子兜太を送る」では、宮本町太鼓愛好会による秩父音頭と秩父囃子の演奏がありました。秩父音頭は兜太氏の父である金子伊昔紅氏によって再興された歴史があります。会場は満席となり兜太氏に対する多くの方々の思いを感じることができました。また資料の一つとして熊谷の句碑リーフレット「熊谷句碑物語」が配付され、熊谷に根付く俳句文化についてご紹介することもできました。今後においても熊谷の自然や歴史を彩る兜太氏の俳句について発信できたらと思います。







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