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群馬県立歴史博物館 開館40周年記念 第98回企画展『大新田氏展』 [中世]


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 2019年度に開館40周年を迎える群馬県立歴史博物館の記念展の第一弾として、新田氏を取り上げた展覧会が開催されています。


企画展開催概要より
 群馬県民に親しまれている新田義貞、その歴史的評価は天皇の忠臣から凡将まで時代によって大きく変わります。では、元号も改まり新たな幕開けを予感させるこんにちにおいて、義貞をどのように捉えることが求められているのでしょうか。本展では、新田一族に関わる甲冑・彫刻・古文書などの資料をとおして、南北朝動乱を駆け抜けた新田義貞とその一族の歴史に迫ります。
一 義貞の勇姿
二 新田氏から岩松氏へ
三 新田氏の故郷.


会期
2019年4月27日(土)~6月16日(日)

開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(ただし4/29、5/6は開館、5/7は休館)
入館料 一般600円(480円)/大高生300円(240円)/中学生以下無料
※カッコ内は20名様以上の団体割引料金/障がい者手帳持参者とその 介護者1名は無料

主催 群馬県立歴史博物館
刊行物 図録・リーフレット

問合せ
群馬県立歴史博物館
〒370-1293 群馬県高崎市綿貫町992-1
TEL.027-346-5522 FAX.027-346-5534

企画展ホームページ
http://grekisi.pref.gunma.jp/kikaku.html





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熊谷市指定有形民俗文化財「茶臼塚板石塔婆」 [中世]

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茶臼塚板石塔婆の確認調査

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板石塔婆裏面の補修状況

 熊谷市村岡集会所南側にある熊谷市指定有形民俗文化財「茶臼塚板石塔婆」は、高さ3.16m、幅0.58mの規模で市内最大の板石塔婆であると推定されています。文永10年(1273)の銘があり、阿弥陀三尊が梵字で示されています。下部には「観世音菩薩往生浄土本縁経」を出典とした五字四句の刻字が記され、9人の子が親への供養のために立てた碑であると考えられています。昭和30年11月3日に熊谷市の文化財に指定されました。
 この板碑は現在まで何度か折れるなど毀損し、そのたびに修復が行われてきましたが、昭和時代初め頃には立脚した状況ではなく横に置かれたままで上下部分が分離するなどの状況があったようです。地元の高雲寺と村岡地区の方々が中心となり保存活動が行われ、かつて茶臼塚と呼ばれていた場所に近隣の観音像石碑などとともに再建立されたとの伝承が残ります。その際に分離した箇所の接合が行われましたが、文化財指定後も野外における保存が難しく、平成に入り再び石碑が毀損したことをきっかけに板碑の収蔵建屋が設置されました。また、板碑自体も裏面の中央にコンクリート鉄骨による接合保存処置が実施されました。
 その施工から20年経過し、その状況確認を熊谷市文化財保護審議会の黛千羽鶴委員と実施しました。板碑及び建屋に剥落等の毀損はありませんでした。現在は、地元の村岡地域文化遺産保存会が茶臼塚の保存とともに地域の文化財や歴史の啓発事業を進めています。茶臼塚板石塔婆は村岡の文化遺産を構成する重要な資産です。村岡を含む吉岡地域を散策される際は、ぜひご確認ください。





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県指定文化財「板石塔婆」建屋基礎部の修繕 [中世]

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修繕作業の様子


 妻沼聖天山内にある埼玉県指定有形文化財(考古資料)「板石塔婆」の建屋の基礎部が経年により毀損したことから、業者に発注し修繕工事を実施しました。この「板石塔婆」は鎌倉時代に建立されたもので表に「善光寺式三尊」を浮彫り、裏に釈迦三尊の種子が刻まれています。善光寺式は長野にある善光寺の阿弥陀三尊像の形態に端を発する様式で、妻沼地域においては能護寺などにも善光寺式と称される板石塔婆が所在しています。妻沼聖天山にある「板石塔婆」は元来、大我井神社、妻沼小学校敷地にありましたが、歓喜院聖天堂と歓喜院本坊を結ぶ道路脇に移設され、保存されています。板石塔婆の形態や地域の信仰との関わりなどが評価され、昭和40年3月16日に埼玉県の文化財に指定されました。
 修繕工事の際には近隣の妻沼幼稚園の園児もその作業を見学し、板石塔婆について「初めて知った」「こんな石が妻沼にあったんだ」という感想を話していました。


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空から見た遺跡 ―三ヶ尻地内の館跡 [中世]

 昭和58年三ヶ尻地区のほ場整備事業の実施に際し、黒沢館跡の発掘調査が実施されました、その結果渡辺崋山の『訪瓶録』に描かれた伝黒沢屋敷跡の濠割が姿を現しました。出土遺物の大半はかわらけや板碑片などでしたが15世紀後半の一時期を示しており、古河公方と管領上杉氏の争乱(享徳の乱)、扇谷・山内の両上杉氏の抗争(長享の乱)の頃に館が造られたと考えられました。この頃は、関東では各所に城郭が作られ、市域でも村岡熊谷の渡しを回る戦闘が度々起っていたようです。
館跡の主郭は一辺が約60mの長さを有し、上幅約3m、深さ1mの濠がほぼ台形に回っていました。城塞としては小規模に見えますが、昭和49年撮影の航空写真を見ると「ふるぼり」と呼ぶ南東を走る水路の配置と主郭の南前面から東北側の屈折の位置とに一致することが窺えます。この「ふるぼり」と主郭の前面が曲輪(くるわ)を形成していたと想定されます。この防備は南東方向―村岡の渡し方向に当たっており、石原~広瀬方面より進攻する敵を迎え撃つ備えとみられます。なお、航空写真では黒沢館西側にも大きな方形区画がみられ、黒沢館跡と関連した土地利用が行われた可能性があり、一体の曲輪であったかもしれないです。 
新編武蔵風土記稿には次のような記録があります。「黒沢武蔵守義政というものの、居りし跡なりといへり、また文明5年(1473)長尾春景古河公方成氏の後詰として、男衾郡鉢形の城に楯籠り、夫れより埼玉郡成田へ出陣せし時、太田入道道灌も馳向ひ、荒川を渡り当所に陣して、両陣の間を遮りしと云うはこのところなり。」
参考 『熊谷市史』資料編1 考古
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「御花神饌」と池上獅子舞 [中世]



 日本三大勅祭のひとつに数えられる京都府八幡市の石清水八幡宮の石清水祭が、毎年9月15日に開催されます。神様の御心をお慰めするために古代染めの和紙でつくられる12台の造花を「御花神饌 (おはなしんせん)」と呼び、元来は皇室からの特別な御供え物だったとされています。「御花神饌」は、2012年より彬子女王殿下を中心に、心游会によって染織史家の吉岡幸雄氏とともに制作されています。今年7回目となる一般の親子や大学生が参加してのワークショップとして実施され、9月15日の石清水祭で御花が奉納されます。昨年の國學院大學での制作ワークショップの様子が動画で紹介されていますので、どうぞご覧ください。

 ふと、「御花神饌」と熊谷との関わりを考えたとき、中世以降、京都府八幡市の石清水八幡宮を発祥とする熊谷市池上の古宮神社で奉納される熊谷市指定無形民俗文化財「池上獅子舞」を思い起こします。「御花神饌」も長い間行われていなかったのですが、彬子女王の呼びかけにより古くから続く伝統文化の復活が実りを成したのです。それは池上獅子舞の伝承も同じであり、戦後において休止する時期もありましたが、地元の保存団体の立ち上げなどで復活し、今では熊谷を代表する無形民俗文化財として保存継承が進められています。「御花神饌」と「池上獅子舞」の意外な関係をそこに感じることができます。




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成田氏史跡保存会創立5周年記念学習会「成田氏と地域の歴史発見」の開催 [中世]

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熊谷市指定史跡「成田氏館跡」


 平成24年(2012)10月、熊谷市上之地区の堀之内自治会を中心に、同地域に館跡が所在する成田氏を顕彰し、館跡周辺の環境保全を進めようと「成田氏史跡保存会」が発足し、本年で5周年となります。成田氏館跡を始めとした成田氏関連の文化遺産の保存及び啓発、成田地区の地域コミュニティづくりを促進させるための更なる事業推進を目指して、5周年を記念した学習会を開催します。

 成田氏は平安時代中期ごろから武州に居を構えていたとされる武将であり、室町時代の延徳3年(1491)に忍城(現在の行田市)に居を移す前は、現在の熊谷市上之地区に館を構えていました。近隣にある龍淵寺(りゅうえんじ)には成田氏歴代の墓がある(市指定史跡「成田氏墓」)。戦国時代末期に起きた忍城周辺での成田軍と石田三成軍との攻防が映画「のぼうの城」で描かれ、多くの関心を集めました。


日時:平成29年8月20日(日) 11時00分から12時00分
会場:熊谷市成田公民館(熊谷市上之531-2)ホール
テーマ:「成田氏と地域の歴史発見」
    趣旨説明:成田氏史跡保存会会長 棚澤栄
    講師:熊谷市教育委員会社会教育課(江南文化財センター) 山下祐樹
定員:50名
主催:成田氏史跡保存会 協力:熊谷市教育委員会
入場無料・当日受付(予約不要)
問合せ 成田氏史跡保存会 棚澤 048-527-5366




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諏訪木遺跡出土青磁2 [中世]

現在整理作業を進めている、昨年度調査した市内諏訪木遺跡より出土した青磁(鉢)の底部片を紹介します。
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本資料は、中国の龍泉窯系青磁で、製作年代は13~14世紀と推測されます。見込み部には、印花文が施文されています。
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高台内側は、施釉後、斜めに剥ぎとられています。

龍泉窯:中国浙江省竜泉県にある青磁を焼く窯群。宋代にはしっとりとした美しい碧緑の磁器として伝統を確立し、元明両代に至っても製作され続け、海外でも広く人気を集めた。この龍泉窯は、明代の朝廷が朝貢貿易を掌握するために、外国へ賞賜した重要な産物となり、アジアやアフリカ、ヨーロッパの遺跡や宮廷収蔵品の中に、龍泉磁器を見ることができ、各地がその模造を通して磁器産業を確立する原動力となった。

諏訪木遺跡出土青磁1 [中世]

現在整理作業を進めている、昨年度調査した市内諏訪木遺跡より出土した青磁(坏)破片紹介します。
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この青磁は、中国南部の福建省の同安窯系青磁と呼ばれるものです。釉は黄色味を帯びた緑色に発色し、内面見込みに、櫛状工具によるジグザグ文様(電光文)を施すものが特徴的です。
時期は12世紀中から13世紀(南宋)。
この同安窯の青磁の生産は13世紀に入ると途絶えてしまいますが、浙江省の龍泉窯では南宋・元・明代と生産が続き、世界の至宝とも言われる青磁の名品を生み出しています。
日本の戦国時代末期(信長の晩年)の茶会に「珠光茶碗」と呼ばれる唐茶碗が用いられていますが、この「珠光茶碗」が同安窯系青磁と推測されています。その後日本では、秀吉の時代になると井戸茶碗などの高麗製品、16世紀末になると国産の桃山茶碗が茶会に用いられるようになります。

中世石造物調査 [中世]

市史編さん事業に伴う今年度第14回目の中世石造物調査を行いました。

市立熊谷図書館が所蔵する板碑60点余りを調査しました。
なお、今回の調査の対象ではありませんでしたが、
熊谷図書館3階美術・郷土展示室には、10点以上の板碑が展示されています。

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所蔵資料の中には、縦152㎝、幅35㎝、厚さ6.0㎝の大型の板碑もあります。
(この資料は展示していません。)
上部には、連座の上に阿弥陀如来の種子であるキリーク、
下部には、光明真言と銘文が、ていねいに彫られています。

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銘文には、「藤原直行 法名行円(文保二年十二月十三日入滅)のおおんため、藤原氏母敬白、」とあります。
熊谷武士と想定される藤原直行という人物が、1318年に亡くなったため、
その母が、息子を供養するために造った板碑です。
熊谷の藤原姓を持つ武士というと、藤原四兄弟(成田、別府、玉井、奈良氏)が想い浮かびますが、はっきりとした人物比定はできていません。

武者の世に息子を失った母の悲しみが、非常に伝わる資料です。



中世石造物調査 [中世]

本日、市史編さん事業に伴う第13回中世石造物調査を行いました。
5名2班体制で、市内の御陵威ヶ原、小曽根、中条地区の寺社墓地等の調査を行いました。
板碑は、気温が低く風が強いことから採拓は行わず所在確認を行い、五輪塔・宝篋印塔の部材については、調査カードに記入しました。
↓は、中条公民館で、調査カードの確認と、運び込むことのできた板碑片の拓本を採っているところです。
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↓は、中条地内の集合墓地内に所在する、如意輪観音の近接写真です。石材は、赤城山を供給源として渡良瀬川流域で採石される灰色安山岩かと思われます。
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1月から3月上旬は、屋外での作業が厳しいので、熊谷市所蔵板碑の室内での調査を行う予定です。