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空から見た遺跡 ―三ヶ尻地内の館跡 [中世]

 昭和58年三ヶ尻地区のほ場整備事業の実施に際し、黒沢館跡の発掘調査が実施されました、その結果渡辺崋山の『訪瓶録』に描かれた伝黒沢屋敷跡の濠割が姿を現しました。出土遺物の大半はかわらけや板碑片などでしたが15世紀後半の一時期を示しており、古河公方と管領上杉氏の争乱(享徳の乱)、扇谷・山内の両上杉氏の抗争(長享の乱)の頃に館が造られたと考えられました。この頃は、関東では各所に城郭が作られ、市域でも村岡熊谷の渡しを回る戦闘が度々起っていたようです。
館跡の主郭は一辺が約60mの長さを有し、上幅約3m、深さ1mの濠がほぼ台形に回っていました。城塞としては小規模に見えますが、昭和49年撮影の航空写真を見ると「ふるぼり」と呼ぶ南東を走る水路の配置と主郭の南前面から東北側の屈折の位置とに一致することが窺えます。この「ふるぼり」と主郭の前面が曲輪(くるわ)を形成していたと想定されます。この防備は南東方向―村岡の渡し方向に当たっており、石原~広瀬方面より進攻する敵を迎え撃つ備えとみられます。なお、航空写真では黒沢館西側にも大きな方形区画がみられ、黒沢館跡と関連した土地利用が行われた可能性があり、一体の曲輪であったかもしれないです。 
新編武蔵風土記稿には次のような記録があります。「黒沢武蔵守義政というものの、居りし跡なりといへり、また文明5年(1473)長尾春景古河公方成氏の後詰として、男衾郡鉢形の城に楯籠り、夫れより埼玉郡成田へ出陣せし時、太田入道道灌も馳向ひ、荒川を渡り当所に陣して、両陣の間を遮りしと云うはこのところなり。」
参考 『熊谷市史』資料編1 考古
空から見た遺跡 ―三ヶ尻地内の館跡.jpg

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