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駅弁掛紙7 [その他]

昭和初年に熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介7回目、今回も清水屋の「上等 御辨當」です。
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左上に雪の積もった山並みのイラストと「旅装はお身軽に」、右下には長瀞の石畳の写真と桜、鉄道路線図のイラストと「名所 上岡観音南一里 熊谷寺西小八丁 熊谷桜堤南二丁 池亭西小八丁」、「熊谷驛 清水」 「金参拾五銭」と印刷されています。右欄外には「御注意 空箱を窓から投げないで腰かけの下にお置き下さい!」、左欄外に「販売品と従業員の営業振りに付き御心付きの点は鉄道係員へ御申告願ひます。」、欄外下には「鉄道構内営業人組合東京下谷中根岸山水社印行」と印字されています。
右上の丸欄に「調整 4.7.7 午前6時」とスタンプが押されており、この弁当が昭和4年7月7日に製造販売されたものと判断されます。

清水屋:店主清水藤左衛門(1880-1952)。藤左衛門は、旧制熊谷中学第一回生で、昭和8年熊谷市政施行後議員に当選し、第一回市議会議長、熊谷市第一土地区画整理組合長に就任し市政に貢献。東京諸新聞販売、埼玉無尽株式会社を興す。明治16年熊谷駅開業に際し、熊谷駅前に客待ちの茶店を出し、駅売り弁当や熊谷五家宝の駅売りを初めて行った。

北條察明筆塚碑 [その他]

市内葛和田の大龍寺不動堂塚上に建てられている北條察明筆塚碑を紹介します。
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本碑は、大正6年4月に、門弟190有余により師の徳を慕い建てられてたものです。書は倉田茂夫、撰文は林泰輔。
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本碑の前には、北条察源の筆塚碑が建てられています。

北條察明(1849-1966):僧、教育者。上州館林藩士の家に周一として生まれ、市内葛和田の大龍寺に預けられ得度し、察明と改名。年少より学を好み、師の北條察源について学を修め、儒医の田村盧庵について漢籍を学ぶ。明治7年葛和田学校開校と同時に四級訓導に補され教鞭をとる。明治12年師の北條察源が没したため「行餘書院」を継承して子弟の教育にあたる。門弟総数は数百人に及ぶ。
林泰輔(1854-1922):漢学者。号は進斎。東京高等師範学校教授を務め、著書『周公と其時代』で学士院恩賜賞を受賞、『亀甲獣骨文字』の刊行で日本の甲骨学の先駆者となる。その甲骨文の研究は羅振玉にも影響を与え、甲骨学の大成に貢献した。

北條察源筆塚碑 [その他]

市内葛和田の大龍寺不動堂前に建てられている北條察源の筆塚を紹介します。
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本碑は、明治14年に察源の門弟50有余人により、師の徳を慕い建立されたものです。撰文は弟子の北條察明、書は市島克、題額は高橋精一。
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本碑の裏の塚上には、弟子の北條察明の碑が、西側には、鴨田鵬斎書の庚申塔が建てられています。

北條察源(1831-1979):僧、教育者。号を月川と称す。埼玉郡下新田村(現羽生市)に生まれる。天保9年酒巻村の慶巌寺に入り得度。後、館林の善導寺で修業し、安政5年慶巌寺の住職となる。文久3年には市内葛和田の大龍寺二十五代の住職として入寺。「行餘書院」を開設し近隣の子弟に漢学、詩文、書道の指導を行う。

きかは便郵108 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介108回目。今回は「熊谷堤の桜」です。
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旧荒川堤に植えられた桜が満開の写真です。
写真の上にはこの桜を詠んだ歌が記されています。
「江戸から こここまで 熊谷堤 花の廊下の 月あかり ー芦江ー」
「我も叉 阿弥陀笠 着て 咲く花に うしろは 見せぬ 熊谷桜 ー三陀羅ー」
「山さくら 枝のすきまを かそふれば 春はまばらに なりにける哉 ー野雁ー」

芦 江は、文人の平山芦江(1882-1953)と思われます。神戸生まれ、本名は壮太郎。実父の死後に長崎の酒屋、平山家の養子になった。日露戦争中満州に渡り、帰国後は「都新聞」などの花柳・演芸欄を担当。大正15年長谷川伸らと第1次『大衆文芸』を創刊。都都逸、小唄の作詞も行う。作品に『唐人船』『西南戦争』などがある。
三陀羅は、狂歌師の三陀羅法師(1731-1814)。この歌は、三陀羅法師が文化5年(1808)3月13日熊谷を訪れ、漢学者青木金山主催の石上寺で開催された書画会に、窪天民、浦上春琴、谷文一、釧雲泉らと共に臨席した際に詠んだもので、熊谷直実の歌詠「浄土にも剛のものとやさたすらん。西に向ひてうしろ見せねば」に拠ったものです。
野 雁は、歌人・国学者・万葉学者の安藤野雁(1815-1867)。福島県桑折町で生まれ。野雁は、晩年を武蔵国冑山(現熊谷市)の根岸家を中心に滞在しており、この歌は、荒川の熊谷桜堤を見て詠んだものです。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2は、大正7年(1918)3月1日以降
以上のことから、この絵葉書は、大正7年(1918)~昭和8年(1933)の間に製作されたものと推測されます。


宮下遺跡発掘調査24 [発掘調査]

市内千代地内の宮下遺跡の発掘調査の紹介24回目。
現在工場建設予定箇所の調査をほぼ終了し、進入路や付帯設備箇所の調査を行っています。
前回紹介した開発予定地の北西で見つかった東西方向の中世の溝が、東隣の調査区でも見つかっています。
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黄色い土が地山の関東ローム層で、茶色い3m程の幅の帯が溝跡です。隣の調査区では直線に延びていた溝が、カーブし南側に曲がっていることが確認されています。どうやら以前調査した埋没谷の上に確認された南東-北西方向の溝につながるようです。中世の館に関する何らかの区画溝と思われますが、その性格については今後の検討課題です。
また、遺構測量のための、ドローンによる写真撮影も行っています。
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供養塔(愚禅書) [近世]

愚禅書の石造物紹介3回目。今回は、久下の権八地蔵のお堂脇に建てられている愚禅書の供養塔を紹介します。
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碑面には、「奉納 西国 坂東 神社 四国 秩父 仏閣 供養塔 九十翁愚禅」と刻まれています。造立は、天保11年(1840)。
この他市内には、愚禅和尚の書による石碑は、広瀬地内の馬頭観音久下地内の馬頭観音等があります。
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愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。

熊谷人物事典 [お知らせ]

熊谷デジタルミュージアム』内の、「熊谷の偉人の部屋」に熊谷ゆかりの人物を紹介する「熊谷Person dictionary」を作成し公開しました。
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現在、「あ行」の21人(秋山忠右衛門、綾川武治 、安藤野雁、飯田岩次郎、石原吟八郎、市村忠七、井上奈遍子、岩崎栄益、宇咲冬男、牛島半舟、内田五八九、内田清八郎、内田朴山、内海良大、卯木風汀、大岡柳斎、大濱玄道、岡部素柳、荻原春山、小沢國平、押田文岱)について紹介しています。今後100人を目標に順次公開していきますので、ぜひご覧ください。

鵬斎書庚申塔 [近世]

市内葛和田の大龍寺不動堂前に建てられている亀田鵬斎書の庚申塔を紹介します。
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亀田鵬斎書で、寛政12年(1800)3月建立。本碑は道標を兼ねており、右側面には「東 ぎやうだ わたしば 道」、左側面には「南 くまがや 西 めぬま ほんじょう」と刻まれています。
鵬斎の書は、1812年以降の書が「フライング・ダンス」と形容される独特な字体となりますが、本碑はまだ踊る前の字体です。
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亀田鵬斎(1752-1826)は、江戸時代後期の儒学者・書家・文人で、「寛政異学の禁」により、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失っています。
その後、各地を流浪し、60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って鵬斎の書を求めました。
鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容され、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られています。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳も残されています。
また、鵬斎は心の優しい人柄でも知られ、天明3年の浅間山大噴火による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたり、赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てたり、定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っています。

諏訪木遺跡発掘調査3‐2 [発掘調査]

昨年11月から開始している、市内上之地内の市道新設に伴う発掘調査。調査区を反転して調査を進めています。
現在、弥生時代に属する、方形周溝墓が確認されています。10m程の規模で方形に溝を巡らせ、四隅が途切れるタイプのものです。
RIMG3849.jpg方形周溝墓調査状況
この他、近世の断面薬研状を呈する溝が確認されており、17世紀前後のかわらけや焙烙、木製品などが出土しています。
RIMG3845.jpgかわらけ出土状況

箱田神社之碑 [その他]

市内箱田の箱田神社境内に建てられている箱田神社之碑を紹介します。
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明治44年7月に建てられたもので、神社の由来と、水屋と社務所の竣工を記念して建てられたものです。撰・書は、林有章、篆額は、陸軍中将三位男爵佐野延勝です。
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林有章(1859-1945):政治家・俳人。熊谷市生まれ。書をよくし、碑文・篆刻・揮毫など多く、百碑先生の名が付くほどであり、詩文・俳句にも通じた。第1回郡長採用試験に合格し、埼玉県北・中葛飾、北埼玉の郡長などを歴任した。また、竹井幽谷、高木弥太郎と、熊谷堤に桜樹植栽の発起人代表となり植樹を実施した。昭和2年8月11日熊谷桜堤は、内務省史蹟天然記念物の指定を受けたことを記念し、11月30日に『名勝熊谷桜』を自費出版し配布した。
佐野延勝(1849-1915):陸軍軍人、政治家、華族。江戸で幕臣の家に生れる。陸軍兵学寮青年学舎を修了し、明治4年(1871)、陸軍少尉任官。騎兵第1大隊長、東京鎮台騎兵隊長などを歴任し、征討軍団参謀として西南戦争に出征。明治13年(1880)4月陸軍省軍馬局長に就任、明治19年(1886)3月騎兵大佐に昇進し騎兵局長となる。明治20年(1887)6月、騎兵監に発令され、明治24年(1891)6月、陸軍少将に進級し日清戦争を迎えた。明治29年(1896)12月3日功績により男爵の爵位を授爵し華族となる。明治37年(1904)7月から明治44年(1911)7月まで貴族院議員に在任。

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