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森田恒友の創作活動と雑誌『方寸』 [その他]

若松城.jpg
恒友が手掛けた風景版画『若松城』
(ハーバード大学サックラー美術館にて収蔵)大正5年ごろ原画制作
版画作品によって絵画と人々の距離を縮めた。


 今回は画家の森田恒友が東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業後の活動について森田仁介『森田恒友小傳』を踏まえながら着目してみたいと思います。

 明治39年(1906)東京美術学校を卒業し、同校の洋画研究科に進学しましたが、翌年には退学しています。東京美術学校同窓会名簿によると明治39年、明治40年には太平洋通信社勤務、明治41年は自営と記録されています。明治39年末に神田明神門前に上京し住んでいた実兄の良一の仮寓2階に転居するまでの間、恒友は『祖母もと女像』を始めとし、明治41年1月上野池之端にて開催された「東京府勧業博覧会」に出品する予定で制作を続け、『梳髪』(25号)など数多くの作品を描きました。

 明治41年の7月から8月の2ヶ月は画家の坂本繁二郎と伊豆大島に写生旅行に出向き、9月10日付の父彦三郎宛の書簡では報知新聞に掲載する挿画原稿の契約について記しているなど、画業は多忙であったと推察されます。その頃、恒友は興味深い事業を展開しています。画家の山本鼎と共同して地方新聞に掲載する絵画供給事業を起業しています。こうした多方面の活動により、研究科にて勤勉を積む時間的余裕が少なかったことも予想されます。

 伊豆大島への旅行中、山本鼎から東京パック入社の勧誘を受け承諾している日記なども残されていますが、野田宇太郎著『方寸の人々』の中には、「東京パックの創刊は明治三十八年四月で、東京パックに描いていた若い画家に平福百穂や森田恒友などがいた」と記されており、恒友の就職活動を知る記述となっています。画家であり生きるためには何らかの職を得ながら生活をしていかなければならないという近代人の姿が見え隠れします。

 その書籍に名が残る『方寸』は、明治40年2月創刊、明治44年7月通巻55号で廃刊となった雑誌ですが、『方寸』は現在においても純文藝誌として高く評価されています。森田仁介書によると、明治39年夏に山本鼎と恒友の二人で、美術評論、創作版画などを盛り込んだ高度の美術雑誌を創刊しようと相談、後に石井柏亭が加わり、柏亭の発想で誌名を『方寸』と定めて出版にこぎつけたようです。後には小杉未醒(放奄)、倉田白羊、平福百穂、織田一磨が同人になり、寄稿者には浅井忠、満谷国四郎、高村眞夫、高村光太郎、北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)バーナード・リーチ、ウィリアム・ケンプと多彩な顔ぶれがこの雑誌を盛り上げたようです。最高月3000部を発行、恒友も43年10月号(第4巻第7号)から44年3月号までその発行責任者にもなっています。

 『方寸』での著述者であり画家の仕事、そして編集者としての試みが後の恒友の芸術に幅を加え、挿絵などの版刷り作品や風景版画などの制作へとつながっています。こうした経験をきっかけとして、恒友は多くの人々が楽しむ娯楽としての絵画に期待を抱いていたのではないかということも想像できます。








「コモンズ」から考えるムサシトミヨ [普及事業]

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(上)元荒川ムサシトミヨ生息地
(左下)ムサシトミヨ
(右下)地域住民やムサシトミヨをまもる会による水辺の除草清掃


 草原、森林、牧草地、漁場などの資源の共同利用地のことを「コモンズ」と呼びます。これらはかつての文明の経過の中で、人々がそれぞれの利用地を共同で管理するなどの方法が採られていたことに由来しています。日本の国内においても自然環境の管理の中で所有権に分け隔てなく共同で保全を進めてきた歴史もあります。例えば、食材を得るための山の利用については、江戸時代などにも林業の先駆けとして伐採や剪定、適宜の間引きなどを集団で行うことで、山菜や果実などの一定程度の収量の確保を保ってきた歴史などがあります。それは海上や川、湖沼でも類似した管理がなされてきました。他方、農業の進展の中では、主従関係に基づく所有関係の明確化が、治水や土壌管理にも適用され、生産量の拡大をもたらしたとも考えられています。

 利根川と荒川の流れがある熊谷においては、それは恵みの根源であったとともに、水利権争いなどの問題も生じさせた経緯があります。その状況の中で、川での淡水魚の漁や鷹狩りなどの狩猟については「コモンズ」の特性があったと推察されます。熊谷の久下・佐谷田地区に始原がある元荒川についても川魚やマスなどの漁が行われ、これは湧水の恩恵とも言える特色であり、家業にした人々も含めて多くの関係者のもと、地域資源の共有が図られてきました。まさしく、この湧水による「コモンズ」による管理によって生きながらえた魚が、世界で熊谷にしか生息が確認されていない「ムサシトミヨ」です。当初、トゲウオ科のムサシトミヨは販売用の魚を傷つけることで駆除する対象となっていましたが、生息が確認されて以降、全国的にも希少な絶滅が危惧される魚であるとの認識が高まり、地域住民・行政などが連携した保護事業が進められてきました。元荒川ムサシトミヨ生息地は埼玉県の天然記念物に指定されています。かつて関東各地に生息されていたムサシトミヨも、湧水の枯渇などで生息数を減少させる中、熊谷では元荒川の最上流部において水産試験場(当時)が水をくみ上げ続けていたことにより、奇跡的に生息が維持されたのです。

 現在、ムサシトミヨの生息数の減少などが課題となっていますが、ムサシトミヨの生息域の保護という共通の目的や意識を、いわゆる「ムサシトミヨ・コモンズ」として理解し、多面的に保護をしていく必要があります。京都大学大学院教授の植田和弘氏は「近代化の過程で農村型社会にあった多くのコモンズが消滅してきたが、コモンズが有していた機能を現代的に再生する管理組織のあり方や、それが成り立つ条件の解明が求められている」( 朝日新聞出版発行「知恵蔵」2007年)と述べています。こうした共有の形態を再生するためには、古くから継承されてきた文化や技術を現代に生かした上で、持続可能な保護の取り組みをいかに行うべきかという点が求められています。このような自然環境や生態系、文化遺産や文化財を未来へつなげるためにどのような方法が必要か、それぞれの状況に応じた新たな「コモンズ」の可能性について模索していけたらと思います。






紡錘車のモニュメント [奈良平安時代]

 熊谷市農業活性化センター・アグリメイトの玄関を入り奥へ進むと、正面に坪庭があります。その坪庭の中央に鎮座するのが紹介します紡錘車のモニュメントです。
 では、なぜここにこのモニュメントがあるのでしょう?
 実は、このアグリメイトを建設する前に発掘調査が行われ、その際に出土した鉄製の紡錘車をモニュメントとして設置したのです。アグリメイトは、横塚遺跡、当時は奈良東耕地遺跡と呼ばれていましたが、その遺跡の上に建っているのです。この紡錘車は、平安時代・10世紀前半の第1号竪穴建物跡から出土し、ほぼ完全な形で出土するのは珍しく貴重なものです。
 ちなみに、紡錘車は、糸を紡ぐ道具のことです。
 もしお近くを通ることがありましたら、ぜひ御覧ください。
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紡錘車のモニュメント
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出土した紡錘車の解説板
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手前左が出土した実物・くまぴあ展示室で展示中

熊谷市農業活性化センター・アグリメイト
熊谷市中奈良897番地
048ー524ー0046
休館日・火曜日、水曜日

熊谷市スポーツ・文化村  くまぴあ
熊谷市原島315番地
休館日・原則第二火曜日
展示室は、創作展示棟3階



森田恒友の渡欧時代について [その他]

 熊谷の近代を代表するだけでなく国内及び欧米にて高く評されている画家に森田恒友(1881-1933)がいます。恒友は熊谷中学(現在の熊谷高校)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業し、中央の画壇や挿絵作家、文筆家として活躍しました。熊谷での青年期より洋画や油彩に多数取り組んでいましたが、渡欧し帰国後は日本画に対する情熱を傾けたという変遷があり、和洋の融合を感じる特徴的な画風により多くの作品を描きました。恒友は大正3年(1914年)の 33歳の時に渡欧しています。 その後の画家人生において意義ある一つの契機となった渡欧での経験について、恒友の経歴等を記した考察書である森田仁介著『森田恒友小傳』によると、フランスでの研鑽を積んだ修行時代に関して、4期の時期に分かれることが類推できます。

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森田恒友『プロバンス風景』 油彩画 45.8×53.3 
キャンバス 大正3年
(熊谷市立熊谷図書館所蔵)


 第1期は渡仏前からの延長とも考えられますが、技法も色調も一歩、セザンヌからの影響に端を発する「セザニズム」に近づいたとも言え、『初夏のパリー郊外』などに代表されています。
 第2期はリヨン郊外並びにプロバンスにて描いていた時代では、色調も更に明るく表現も明瞭にセザンヌを意識したものとなっています。この頃の作品は油彩では『フランス風景』『プロバンス風景』(画像)などがあります。
 第3期はベトゥイユ時代で、ここでは色彩対照を強調し、春を謳歌する自然の姿を見事に写しました作品が生み出されています。それは連作とも考えられる数点の油彩の連作『ベトイユの春』に代表されます。その他、素描画としてセーヌ沿岸をはじめとした風景の描写を進め、淡彩の数点や、大阪毎日新聞に投稿した滞欧通信「ベトイユより」に添えられたコンテの素描作品などがあり、渡仏の成果が見事に結集されていると評価されています。
 第4期はブルターニュの時代で、色調の強化に立体的構成が加味され、滞欧の成果が総合的に集結されたものと考えられます。この時期の作品には『ブルターニュ風景』『ブルターニュの丘』『イルブレア島風景』など滞仏代表作と考えられるものが多く、帰国後大正5年3月18日から4月10日までの日本水彩画第3回展に出品した5点はこの時の作品です。

 こうした各期間での特徴がある恒友の渡欧、特にフランスでの研鑽を経て、帰国した後に日本画への興味が高まった。これについての理由は何点か考えられますが、実に興味深い作風の変化であると言えます。日本人であるからこその日本画。そのようなことを渡欧経験によって感じたのかも知れません。



星宮小学校3年生の文化財見学 [普及事業]

熊谷市の東部に位置する熊谷市立星宮小学校の第3学年では地域の文化財である「愛染明王」・「愛染堂」や梅岩院の「十三仏」を学ぶ総合学習を進めています。
それに際して、現地での見学会が行われました。江南文化財センターの職員が同行し、各地点にて文化財の歴史や特色などを解説しました。愛染明王と十三仏の仏像としての意味合いや、語り継がれてきた逸話、完工した愛染堂の保存修理工事について説明し、メモをしっかり取っていました。今後は獅子舞の歴史などを学び、成果を報告する予定です。


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梅岩院の「十三仏」(市指定有形民俗文化財)

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愛染堂から梅岩院への途上の様子











賢木岡東遺跡発掘調査2 [発掘調査]

 調査も大分進み、台地上の遺構は、土坑、ピットが主体で、おおむね縄文時代中期に所属するものと思われます。竪穴住居跡は、1軒程度しかないようです。
 現在は、台地上の遺構と同時並行で、北及び東に落ち込む谷の調査も進めています。埋土中からは、やはり縄文土器片が出土しています。なお、この谷の北側には、現在も水を湛える沼があり、そのかたわらには親水公園があり、近隣住民の憩いの場となっています。
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台地上の調査風景
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谷の調査風景・手始めにトレンチを入れて調査しています。

三尻村道路元標 [その他]

市内三ヶ尻地内の、県道75号線に面する三尻郵便局東側の、旧三尻村役場跡に設置されている「三尻村道路元標」を紹介します。
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花崗岩製。
三尻村は、1748年頃は下原村と呼称されていました。1889年4月1日町村制施行に伴い、三ヶ尻村・拾六間村・新堀新田村が合併し、幡羅郡三尻村が成立しました。1896年幡羅郡が大里郡・榛沢郡・男衾郡と合併し大里郡となり、1954年11月3日別府村、奈良村とともに熊谷市へ編入され消滅しています。

道路元標:道路の起終点を示す標識。。明治44年(1911)に、現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、大正8年(1919)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。

戸井田欣栄筆塚碑 [その他]

市内上須戸の西光院に所在する、戸井田欣栄筆塚を紹介します。
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本碑は、明治29年2月20日に、門弟たちにより建立されたものです。碑銘の撰文は熊谷町晩成義塾の権田貞恒(春潮)。
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戸井田欣栄(1826-1895):教育者。市内上須戸に生まれる。幼少より読書を好み、市内日向の三学院静旭堂の島田密翁(1816-1891)について書を学び、後、佐藤文庵について漢書の素読を学ぶ。また、寺門静軒が諸家に出張して講筵を行う集いに参加して経書を学んだり、江原村(現深谷市)の玄香庵市月(1804-1887)に俳諧を学ぶなど勤学意欲が旺盛な人であった。慶応元年には自宅の隠居屋を塾舎とし、和漢学、書、俳諧等を教えた。当初は付近の子弟を対象としていたが、次第に近隣からの入門者が増加したため、村内の西光院を借り受け講義を行った。明治6年学生発布により「須戸学校」が創立されると退職し、風雅を友とし晩年を過ごす。

「BUNKAZAI情報」第20号の発行 [普及事業]

江南文化財センターの情報誌「BUNKAZAI情報」第20号を発行しました。
項目は下記のとおりです。
本市の文化財保護事業のトピックスや動向などを紹介しています。どうぞご参照ください。
今後、市内の公民館や図書館、各関係施設などで配付します。
なお、記事等の詳細についてや
お問合せは江南文化財センター(電話:048-536-5062) まで宜しくお願い致します。


編集後記より

 今回で「BUNKAZAI 情報」は第20 号を迎えました。平成21 年11 月3 日に創刊してから7 年半の間、本市においては多様な文化財事業を展開し、様々なトピックスを報告することができました。今回の第20 号という数から、モーツァルトのピアノ協奏曲第20 番を思い起こしています。この曲はウィーンで活躍を始めたモーツァルトが、決意を持って自身の音楽の方向性を表現した作品と評価され、以降の作曲家に大きな影響を与えています。この協奏曲のように決意を新たに、次なる発行に向けて歩みを進めていきたいと思います。今後とも本市の文化財保護行政へのご協力をお願い致します。



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TOPICS
 新たな熊谷市文化財の指定—「みかりや」関連資料・歓喜院仁王像(2体)—
 「池上遺跡出土品」が埼玉県の文化財に指定されました。

市内遺跡発掘情報
  平成28 年度上之土地区画整理地内遺跡
  諏訪木遺跡(すわのきいせき)
  宮下遺跡(みやしたいせき)
連載くまがやの古墳群
  村岡古墳群−新たな古墳の存在が確認された古墳群−

文化財センター通信
 ◇平成29年度埋蔵文化財保護事業の展望
 ◇国宝「歓喜院聖天堂」での声楽コンサート
 ◇新指定文化財「みかりや」関連資料記念講座

文化財探訪
板井・出雲乃伊波比神社( いたい・いずものいわいじんじゃ)

文化財コラム
空から見た遺跡−男沼−飯塚北遺跡−

報告 観音山の保存に向けて

編集後記



「BUNKAZAI情報」第20号のPDFデータは次のURLをご参照ください。

http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/b_h290512.pdf






熊谷市名勝「観音山」の保存に向けて

熊谷市三ヶ尻に位置する観音山は標高約85m、周囲約850mで、松・なら・くぬぎ等が豊富に植生し、熊谷市の名勝に指定されています。南麓には龍泉寺が所在しています。江戸時代の知の巨人である渡辺崋山もこの地を訪れ、その風光明媚な風景を絵にしたためるなどしています。平成28年度においては熊谷市と地元の観音山保存会との市民協働事業が実施され、樹木の管理や遊歩道の整備を行いました。今後は文化財の保存に向けた補助事業を中心として、所有者及び地域の保存会である「観音山保存会」とともに名勝の保存を継続的に進めていく予定です。


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遊歩道の整備





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